2013年08月31日
そして雨 8月25日(日)
雨が降らんがな、雨降れよと、ぎらぎら空見ながら うなっていたこの夏ですが、やっと雨ですがな。
と思ったら、「豪雨」「非常に激しい雨が降るおそれがあります。」と、冷静なアナウンスが聞こえます。それにスパイスをくわえるのが「局地的に」というひびき。豪雨はイヤですがな、局地的に当たってしまうのも恐ろしいですがな。道、畦が崩れる様子が浮かんできてうなされます。
そんなとき、今頃になって読んでいる『図書』(岩波書店)6月号に載っていた「水の世紀の戦争と平和」を読んで恐ろしくなってしまいました。
長沼 毅さんという海洋生物学者さんが書かれています。
─────
(略)二一世紀のいまになって、古代日本の美称「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国」が必ずしも永続しない危惧が生じてきた。本来は「豊葦原」も「瑞穂」も豊かな水に恵まれていることを指す。これは、日本列島が「東南アジア温帯モンスーン」という雨期をもつ地域にあるおかげだ。具体的には梅雨と秋の長雨である。
モンスーンはもともと季節風を指すので、雨期があれば乾季もある。ところが、本来は乾季にあたる冬の間でも、日本列島に吹きつける北西の季節風は、日本海を北上する暖流(対馬海峡)から水蒸気をもらうので、豪雪という迷惑なかたちであるが、かなりの水分をもたらしてくれる。実は世界的に見ると、こういう国はむしろ少なく、雨期と乾季がはっきり別れていることのほうが多い。
雨期と乾季が分かれるというのは、極端な例でいえば、洪水と日照りの繰り返しということである。私はアラビア半島で砂漠の洪水を見たことがある。ふだんは乾燥しきっている地面はかちかちに固い。そこに大雨が降ると、水は土に浸透するよりはやく地面を走り流れる。それが集まって奔流となり、土を深く抉(えぐ)っていく。-(略)-
こういう土地ではもちろん表土も流失する。せっかく手間と時間をかけて作った「土」を失うのだから、農民はたまったものではない。福島の原発事故で汚染された土が「除染」で剥ぎ取られ、「祖父の檀家ら百年かけて作った土」を奪われた農家の深い嘆きを現今の日本で聞くことになってしまったが、同じことが大雨による表土流失でも起こるのである。
日本がこれからもずっと水に恵まれた「豊葦原の瑞穂の国」であり続けるかどうかは疑問である。それは降水量の増減ではない。日本の年間降水量は一七〇〇ミリ、この一〇〇年間あまり変わっていない(ちなみに世界の平均降水量は約九七〇ミリ)。問題は雨の降り方である。特にここ数年は「一〇〇年に一度」といった異常豪雨が毎年のように発生し、異常が日常化しているのだ。
気象統計を眺めると、 降水日数は減っているのに降水強度(豪雨の指標)は増していることがわかる。つまり、たまにしか降らないけれども、降れば大雨、ということである。これでは砂漠の大雨にも似て、農民が大切につくり守ってきた畑の土が、どんどん流失してしまう。
さらに懸念されるのは、地下水が涵養されなくなって井戸が枯れ、川まで涸れてしまうことだ。これまで穏やかな慈雨がしとしと降り、土に浸透して地下水を涵養していた。しかし、最近の豪雨では、土への浸透流より地表流になる割合が増え、地表流は排水路や川に流れ込み、堤防ぎりぎりの奔流となって海に吐き捨てられる。地下水を涵養する浸透流は確実に減っているのである。
-(略)-
森林の地表には落葉がある。広葉樹の落葉でも、針葉樹の落葉でもよい。落葉の層そのものにも保水力があるが、より重要なのは落葉の緩衝作用である。森林に降る雨は落葉を叩くが、地表を直接に叩くことはない。雨は幹を伝って穏やかに、また落葉を介して地表に達し、地中にゆっくりと浸透する。これが地下水を涵養するのだ。
今から一、二世代前に密植された森林は、林業の低迷により人手が入らぬまま放置されてきた。手入れされないまま密植された木々は次第に樹勢が弱くなり、立ち枯れや風倒木が続出する。さらに、強い木でも倒木に寄りかかられれば樹勢が弱くなる。かくして放置された密植林はついに荒れ山となり、落葉も層をなさず、地表が見えるようになる。そこに豪雨が降ると、雨の衝撃で地表が削られ、やがて固い岩盤が露出する。そうなると大雨は一気に山を流れ下り、土石流の危険性が高まるのである。
だからこそ森林に人の手を入れなければならないのである。(略)-
かつて国産米には、生産者米価が政治的に決まる「政治米価」があり、それが消費者米価より高いという「逆ザヤ」もあった。(略)しかしその背景には、「国産米を守る」「日本の稲作を継続させる」という強い意志があることを指摘しておきたい。
同じことを国産材にも当てはめてもいいのではないか。国産材の生産と消費に税金を投入し、国産材をより生産しやすく、また、より消費しやすくすれば、林業が甦り、山も生き返る。それは地下水の涵養になり、治山治水の礎(いしずえ)ともなる。税金で砂防ダムをつくるのとどちらがよいか。税金で林業を振興するのは、税金で水資源を保全することなのである。
─────
読んだときの驚きと納得でチカラが入ってしまい、長い引用となってしまいました。
さてこちらの田んぼでは、

どこかで崩れている砂を流しながら水が流れだしています。

田んぼからも、水がぎょうさん流れだしてます。畦を越している所もありました。ほっとくと崩れます。雨でも来てよかった。

雨をしのいでいる生き物たちに出会いました。






こいつは元気ですね。



伸びいた雑草も雨でへちゃげていましたが、ヘチマの棚もへちゃげました。晴れても戻りません。横着して作ったらこのザマです、お恥ずかしい。

さあ、これで持つかな。

そして今日の収穫でした。
と思ったら、「豪雨」「非常に激しい雨が降るおそれがあります。」と、冷静なアナウンスが聞こえます。それにスパイスをくわえるのが「局地的に」というひびき。豪雨はイヤですがな、局地的に当たってしまうのも恐ろしいですがな。道、畦が崩れる様子が浮かんできてうなされます。
そんなとき、今頃になって読んでいる『図書』(岩波書店)6月号に載っていた「水の世紀の戦争と平和」を読んで恐ろしくなってしまいました。
長沼 毅さんという海洋生物学者さんが書かれています。
─────
(略)二一世紀のいまになって、古代日本の美称「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国」が必ずしも永続しない危惧が生じてきた。本来は「豊葦原」も「瑞穂」も豊かな水に恵まれていることを指す。これは、日本列島が「東南アジア温帯モンスーン」という雨期をもつ地域にあるおかげだ。具体的には梅雨と秋の長雨である。
モンスーンはもともと季節風を指すので、雨期があれば乾季もある。ところが、本来は乾季にあたる冬の間でも、日本列島に吹きつける北西の季節風は、日本海を北上する暖流(対馬海峡)から水蒸気をもらうので、豪雪という迷惑なかたちであるが、かなりの水分をもたらしてくれる。実は世界的に見ると、こういう国はむしろ少なく、雨期と乾季がはっきり別れていることのほうが多い。
雨期と乾季が分かれるというのは、極端な例でいえば、洪水と日照りの繰り返しということである。私はアラビア半島で砂漠の洪水を見たことがある。ふだんは乾燥しきっている地面はかちかちに固い。そこに大雨が降ると、水は土に浸透するよりはやく地面を走り流れる。それが集まって奔流となり、土を深く抉(えぐ)っていく。-(略)-
こういう土地ではもちろん表土も流失する。せっかく手間と時間をかけて作った「土」を失うのだから、農民はたまったものではない。福島の原発事故で汚染された土が「除染」で剥ぎ取られ、「祖父の檀家ら百年かけて作った土」を奪われた農家の深い嘆きを現今の日本で聞くことになってしまったが、同じことが大雨による表土流失でも起こるのである。
日本がこれからもずっと水に恵まれた「豊葦原の瑞穂の国」であり続けるかどうかは疑問である。それは降水量の増減ではない。日本の年間降水量は一七〇〇ミリ、この一〇〇年間あまり変わっていない(ちなみに世界の平均降水量は約九七〇ミリ)。問題は雨の降り方である。特にここ数年は「一〇〇年に一度」といった異常豪雨が毎年のように発生し、異常が日常化しているのだ。
気象統計を眺めると、 降水日数は減っているのに降水強度(豪雨の指標)は増していることがわかる。つまり、たまにしか降らないけれども、降れば大雨、ということである。これでは砂漠の大雨にも似て、農民が大切につくり守ってきた畑の土が、どんどん流失してしまう。
さらに懸念されるのは、地下水が涵養されなくなって井戸が枯れ、川まで涸れてしまうことだ。これまで穏やかな慈雨がしとしと降り、土に浸透して地下水を涵養していた。しかし、最近の豪雨では、土への浸透流より地表流になる割合が増え、地表流は排水路や川に流れ込み、堤防ぎりぎりの奔流となって海に吐き捨てられる。地下水を涵養する浸透流は確実に減っているのである。
-(略)-
森林の地表には落葉がある。広葉樹の落葉でも、針葉樹の落葉でもよい。落葉の層そのものにも保水力があるが、より重要なのは落葉の緩衝作用である。森林に降る雨は落葉を叩くが、地表を直接に叩くことはない。雨は幹を伝って穏やかに、また落葉を介して地表に達し、地中にゆっくりと浸透する。これが地下水を涵養するのだ。
今から一、二世代前に密植された森林は、林業の低迷により人手が入らぬまま放置されてきた。手入れされないまま密植された木々は次第に樹勢が弱くなり、立ち枯れや風倒木が続出する。さらに、強い木でも倒木に寄りかかられれば樹勢が弱くなる。かくして放置された密植林はついに荒れ山となり、落葉も層をなさず、地表が見えるようになる。そこに豪雨が降ると、雨の衝撃で地表が削られ、やがて固い岩盤が露出する。そうなると大雨は一気に山を流れ下り、土石流の危険性が高まるのである。
だからこそ森林に人の手を入れなければならないのである。(略)-
かつて国産米には、生産者米価が政治的に決まる「政治米価」があり、それが消費者米価より高いという「逆ザヤ」もあった。(略)しかしその背景には、「国産米を守る」「日本の稲作を継続させる」という強い意志があることを指摘しておきたい。
同じことを国産材にも当てはめてもいいのではないか。国産材の生産と消費に税金を投入し、国産材をより生産しやすく、また、より消費しやすくすれば、林業が甦り、山も生き返る。それは地下水の涵養になり、治山治水の礎(いしずえ)ともなる。税金で砂防ダムをつくるのとどちらがよいか。税金で林業を振興するのは、税金で水資源を保全することなのである。
─────
読んだときの驚きと納得でチカラが入ってしまい、長い引用となってしまいました。
さてこちらの田んぼでは、
どこかで崩れている砂を流しながら水が流れだしています。
田んぼからも、水がぎょうさん流れだしてます。畦を越している所もありました。ほっとくと崩れます。雨でも来てよかった。
雨をしのいでいる生き物たちに出会いました。
こいつは元気ですね。
伸びいた雑草も雨でへちゃげていましたが、ヘチマの棚もへちゃげました。晴れても戻りません。横着して作ったらこのザマです、お恥ずかしい。
さあ、これで持つかな。
そして今日の収穫でした。
Posted by まるみつ at 11:07│Comments(2)
この記事へのコメント
日本のどこを旅しても山が見えます。
いつも日本は山国やなあ、この資源を何とか出来んのかいな
と思っていました。
朝日新聞に高槻で山のボランティア養成の記事がありました。
高槻の定年後の知り合いに言ったら、ボランティアではなあ。
やっぱり今の年金では日当欲しいわなあ と言われました。
もっともです。
ムダで有害なダムより、人の暮らしのの根幹にかかわる農業のために
林業にお金を使ってほしいですね。
天王寺図書館でも水にかかわる本の特集をしています。
長沼さんの本もありました。世界的視野で書かれた本も
多くあり、大変な状況にあることに愕然とします。
その中で小さな生きものの命の営みが愛らしく、そして切なくなります。
今年も海で白化したサンゴを多く見ました。
いつも日本は山国やなあ、この資源を何とか出来んのかいな
と思っていました。
朝日新聞に高槻で山のボランティア養成の記事がありました。
高槻の定年後の知り合いに言ったら、ボランティアではなあ。
やっぱり今の年金では日当欲しいわなあ と言われました。
もっともです。
ムダで有害なダムより、人の暮らしのの根幹にかかわる農業のために
林業にお金を使ってほしいですね。
天王寺図書館でも水にかかわる本の特集をしています。
長沼さんの本もありました。世界的視野で書かれた本も
多くあり、大変な状況にあることに愕然とします。
その中で小さな生きものの命の営みが愛らしく、そして切なくなります。
今年も海で白化したサンゴを多く見ました。
Posted by えした at 2013年08月31日 21:59
長沼さんの引用ありがとうございます。本文をぜひ読みたいと思います。
息子が林業現場で働いていますが、「ようこんな所にまで植林したもんや。あとで伐ることなんか考えんと植えたんやろ。」と言います。JRの線路際とか崖っぷちとか。それは「今から一、二世代前に密植された」とき、行政から補助金が出たそうで、補助金目当てに山主さんが手当り次第に密植した結果だと思われます。そしていま、林業会社が「間伐」と銘打って行政から補助金をもらい、山主からは無料で間伐材(と言ってもそこそこの商品になる太さ)を入手し、市場で売るという二重に儲けているそうです。補助金)税金にたかってるわけです。したがって、長沼さんのおっしゃる税金で林業再生というのは、基本的に賛成だけれど、たかり体質が改まらないかぎり、目先の銭目当ての事業は横行すると思います。
「農民が育てた土」についても、すくなくともぼくの近所では80才を超えたかしこそうなご婦人でさえ、「あんたとこの畑、草だらけで見てられんわ。除草剤使わなあかんえ。」とおっしゃる。
トラクターで深耕して土壌微生物を殺してしまい、除草剤をはじめとする農薬と化成肥料で稲、野菜を作るのが常識になっている。土は死に続けている。その意味で「せっかく手間と時間をかけて作った「土」を失うのだから、農民はたまったものではない。」というのも幻想かもしれないと感じる。当地の一例がすべてではないから、短絡的な断定は控えたいが。
なにしろ、豪雨と山の保水力の無化はもう限界に達していると思う。ウチの前の小川、普段は水不足で魚もまばらだが、ひとたび雨が降るととたんに濁流と化す。そして翌日はまた渇水。どこかでなにかがおかしくなってしまった。どこから手をつけたらいいんだろう。
ぼくは雨がやんだら手鎌で稲を刈る。蕎麦は播いて発芽した。11月には小麦を播く。そんなことしかできない。
息子が林業現場で働いていますが、「ようこんな所にまで植林したもんや。あとで伐ることなんか考えんと植えたんやろ。」と言います。JRの線路際とか崖っぷちとか。それは「今から一、二世代前に密植された」とき、行政から補助金が出たそうで、補助金目当てに山主さんが手当り次第に密植した結果だと思われます。そしていま、林業会社が「間伐」と銘打って行政から補助金をもらい、山主からは無料で間伐材(と言ってもそこそこの商品になる太さ)を入手し、市場で売るという二重に儲けているそうです。補助金)税金にたかってるわけです。したがって、長沼さんのおっしゃる税金で林業再生というのは、基本的に賛成だけれど、たかり体質が改まらないかぎり、目先の銭目当ての事業は横行すると思います。
「農民が育てた土」についても、すくなくともぼくの近所では80才を超えたかしこそうなご婦人でさえ、「あんたとこの畑、草だらけで見てられんわ。除草剤使わなあかんえ。」とおっしゃる。
トラクターで深耕して土壌微生物を殺してしまい、除草剤をはじめとする農薬と化成肥料で稲、野菜を作るのが常識になっている。土は死に続けている。その意味で「せっかく手間と時間をかけて作った「土」を失うのだから、農民はたまったものではない。」というのも幻想かもしれないと感じる。当地の一例がすべてではないから、短絡的な断定は控えたいが。
なにしろ、豪雨と山の保水力の無化はもう限界に達していると思う。ウチの前の小川、普段は水不足で魚もまばらだが、ひとたび雨が降るととたんに濁流と化す。そして翌日はまた渇水。どこかでなにかがおかしくなってしまった。どこから手をつけたらいいんだろう。
ぼくは雨がやんだら手鎌で稲を刈る。蕎麦は播いて発芽した。11月には小麦を播く。そんなことしかできない。
Posted by juran
at 2013年09月01日 08:08
